三島由紀夫「若きサムライのために」より

三島由紀夫「若きサムライのために」より

肉体について
「これからますますテレビジョンが発達し、人間像の伝達が目に見えるもので一瞬にしてキャッチされ、それによって価値が占われるような時代になると(中略)目に見える印象でその全ての人間のバリューがきめられてゆくような社会は、当然に肉体主義におちいってゆかざるを得ないのである。私は、このような肉体主義はプラトニズムの堕落であると思う。」

快楽について
「性をめぐって情熱と快楽とは正反対に位するものであろう。ごく簡単に図式的に言えば、若者の性は最高の表現をとる時に情熱になり、おとなの性は最高の表現をとる時に快楽になるということができよう。しかし、現代の若者は、性を情熱からさえ解放しようとしているのである。快楽には金がかかり、これは若者には不可能である。情熱には一文の金もかからないが、命をかける覚悟がなくてはならない。命をかける覚悟もなく、金も持たない若者が、しかも性を味わおうとする時に残されたものはあたかもピル・セックスのような、観念的な、末梢神経の戯れになる他はない。性欲の最も盛んな時期に、そうした衰弱した性だけしか若者に与えることのできない社会に、若者が何らかの不満を持つに至ることは、避けられないことである。」

長幼の序について
「フランスの十九世紀の有名な批評家サント・ブーヴの『わが毒』という随想集の中に(中略)『齢不惑を超えた高名な多くの人々の間に、失敗や脱線や狂気のさたや卑劣な行為を見るにつけ、ぼくは思う。向こう見ず焼きの早さはあるが、青春というものはやはりまじめな聡明なものだ。方向を失って軽薄なものになってしまうのは、かえって人生の後半においてだ』と。

文弱の徒について
「ほんとうの文学は、人間というものがいかにおそろしい宿命に満ちたものであるかを、何ら歯に衣着せずにズバズバと見せてくれる。しかしそれを遊園地のお化け屋敷の見せ物のように、人を脅かすおそろしいトリックで教えるのではなしに、世にも美しい文章や、心をとろかすような魅惑に満ちた描写を通して、この人生には何もなく人間性の底には救いがたい悪がひそんでいることを教えてくれるのである。そして文学はよいものであればあるほど人間は救われないということを丹念にしつこく教えてくれるのである。そして、もしその中に人生の目標を求めようとすれば、もう一つ先には宗教があるに違いないのに、その宗教の領域まで橋渡しをしてくれないで、一番おそろしい崖っぷちへ連れて行ってくれて、そこで置きざりにしてくれるのが『よい文学』である。」

努力について
「努力の価値が一度も疑われなかったというところに、日本という国のある意味では民主主義的な性格が、よくあらわれている。なぜなら、努力とは非貴族的な性格のものだからである。(中略)『天才は努力である』ということばは、いわばなりあがり者の哲学であって、金もなく、地位もない階級の人間が世間に認められるための、血みどろな努力を表現するものとしてむしろ軽んじられた。」
「人間は、場合によっては、楽をすることのほうが苦しい場合がある。貧乏性に生まれた人間は、ひとたび努力の義務をはずされると、とたんにキツネがおちたキツネ付きのように、身の扱いに困ってしまう。(中略)彼らにとっては、努力を失った人生の空虚というものに、ほんとうに対処するすべを知らないので、また別のむだな努力を重ねて、死ぬまで生きたいと思うわけである。しかし、実は一番つらいのは努力することそのことにあるのではない。ある能力を持った人間が、その能力を使わないように制限されることに、人間として一番不自然な苦しさ、つらさがあることを知らなければならない。

東大を動物園にしろ
“痩せた豚になった”
「結局、身をもって真実を守り人間を尊重したのは、林健太郎教授ただひとりじゃないか。ああして最後まで頑張って自己を尊重し、自尊心を守ることが、とりもなおさず人間を尊重することになるんだ。自己を尊重できないものが、どうして人間を尊重でき、真実を尊重できるのかね。」

未来を信ずる奴はダメ
「未来社会を信じない奴こそが今日の仕事をするんだよ。現在ただいましかないという生活をしている奴が何人いるか。現在ただいましかないというのが”文化”の本当の形で、そこにしか”文化”の最終的な形はないと思う。」

「未来はオレに関係なくつくられてゆくさ、オレは未来のために生きてんじゃねェ、オレのために生き、オレの誇りのために生きてる。」

「言論の自由とか、自由の問題はこの一点にしかない。未来の自由のためにいま暴力を使うとか、未来の自由のためにいま不自由を忍ぶなんていうのは、ぼくは認めない。」

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