鶴田錦史の琵琶

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80歳を過ぎた鶴田錦史が3台の琵琶をバックに地を揺るがすような太く深い声で物語を紡ぎだす作品。病のため本人は琵琶を弾かずに「語り」を担当し3人のお弟子さんが琵琶を弾くというセッティングで非常にインパクトのある変幻自在な音世界を作り出している。戦後、加速する文化的な変化のなかで片隅に押しやられていたかのようなこの日本の伝統芸術が世界に類い稀なる高みに達していることを示す名作。そしてこの録音の約一週間後に鶴田錦史は息を引き取った。雪の降り積む国立劇場での公演の二日後だという。

私が初めて鶴田錦史の演奏に出会ったのは武満徹のエクリプス、November Stepsを通してである。武満特有の静寂からある時は囁くようにそしてまたある時は引き裂くようにたたみかけてくる彼女の演奏に私はショックを受けた。琵琶と言えば「日本マンガ昔話」の琵琶法師というレベルだった私は琵琶という楽器の表現力の幅広さ、そしてその肉体を共鳴させて止まないノイズを含んだ音の虜になった。琵琶法師はそれなりに恐ろしかったし、正倉院に残る五弦琵琶は本当に美しいと思っていたが、琵琶の音を眼前にしてあまりにも生々しくこの日本の伝統的な楽器の絶対的な力を体験した。

戦前に琵琶の奏者としてアイドル的存在だった鶴田錦史は「戦後」が多くの伝統芸能を衰退させたように経済的な理由から一時的に一線から手を引くことになる。実業家として成功した鶴田錦史は武満徹に「再発見」されることにより「ただの琵琶弾き(錦史談)」から一躍現代音楽界で注目を浴びることになる。武満徹とともに次々と新しい琵琶の演奏法をあみだし琵琶楽に革命を起こす。様々な楽器との合奏や、コンタクトマイクの使用も試みる。晩年は若い弟子の養成に力を注ぎ、果ては「琵琶バンド」を夢見ていた。20代の女性ばかり5、6人「それも、きれいな子じゃなきゃ駄目よ。もちろん、演奏がうまい子で」と言っていたらしい。

それを継承してそのまま地で行っている鶴田錦史のお弟子さんだった西原鶴真さんという方がいる。伝統的演奏だけでなく彼女はエレキ琵琶を作り「バンド」演奏をしている。鶴田錦史から引き継いだ鶴派の演奏もさることながら、ダンサーや様々な楽器奏者と共演して新境地を開き続けている。鼓とパーカッションを驚くべきテクニックと音楽性で奏でる仙波清彦の例を出すまでもなく、伝統芸能を引き継ぐものが「現代」という時と戦って、そしてその戦いを楽しんでいる姿は非常に美しい。

「語り」ということ
なぜ平家物語の力が現代によみがえるのか。既に知っている物語をそれが語られることによって私達は生身で体験することになる。語り手という人間の身体(声そして演奏)が聞き手の前に立ちはだかる。人間の人間による人間のための語り。身体の身体による身体のための語り。薩摩琵琶の程よく「ノイズ」の混ざったパーカッシヴな音は「ひと響きひと響き」聞き手の体の芯まで突き刺さってき、語られる「ひと言ひと言」が記憶の奥底まで沁みてきて、背筋が寒くなり、人間は精神も身体もただ一つの生身そのものである。。。という瞬間の連続がただ連なってゆく。語り手は登場人物であり、登場人物は聞き手であり、聞き手は語り手だ。

「俊寛」
力及ばず、詮方なみに踊り籠み、船よ船よのう、と呼ばわれど返すは無情の波の音、あはれ非常の風の声。

琵琶のように表現豊かな伝統楽器を持つ集団の子として産まれたことを私は本当に誇りに思う。これは決して陳腐な愛国主義ではない。西アジア、アラブで産まれた人間の音楽の達成が世界を渡り歩いて渡り歩いて我らが島にたどり着き、我らが先祖はそれを単に正倉院にしまい込んだだけでは飽き足らず、琵琶が歩いた世界の道すがらどこにも見当たらない音楽表現を築き上げた。

語りとともにあった琵琶。音楽を構築するのではなく、世界を現前させるための琵琶。中国の琵琶がフレット数を増やし高度な音階表現を実現することを可能にしたのに対して、日本の琵琶は、あえてフレット数を少なく押さえ込み、弦高と駒を高くすることにより押さえる指の力が直接音に現れるようにした。一音一音に込められる精神の力。それは琵琶の一音一音は音楽の一部というよりはむしろ記憶・歴史の深みから絞り出された語りの一部であるかのようである。

「俊寛」前半

「俊寛」最終部

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